生ドラムとサンプラーの併用

10月12日に久しぶりの夜酔リョータロウバンドのライブが終了した。見てくださった方には謝辞を。

今回の演奏で特筆すべきなのは、自身の新たな取り組みとしてドラムセットに組み込む楽器を増やした点にある。今回追加したのは、Rolandのサンプリングパッド「SPD-S」とスプラッシュシンバルの2つ。

サンプリングパッドに関しては一定のレベルの質に落ち着かせることは出来たと思うが、まだまだ可能性を引き出せていないというのが正直なところ。今回はサンプラーでノイズ的な音を出してリズムを刻みつつ、キックもSPD-Sから4つ打ちで鳴らし、徐々に生のスネアやシンバル、キックを加えていくというもの。シンバルとサンプリング音の合わせ方なんかはまだ改善の余地があると思っていて、この道の始師匠と仰ぐSteve Jansenへの道は遠い。僕の理想とは、生ドラムとサンプラーが融合するというのではない。サンプラーから出る電子音が生のシンバルやスネアと違和感なく共存し、生ドラムの方へより近づいていくような流れを作ることである。あくまでも主体は生楽器の響きであり、そこに付加的に電子音が加わることで演奏自体が変質する、そういうものを目指したいと思っている。

一方スプラッシュは以前よく使っていたがこの2年間(ということは社会人になってからということだが)は全く使っていなかった。今回夜酔リョータロウバンドはキーボードが抜けた4人編成になったということで、音色をより色彩豊かにしたいとの思いから加えてみた。またセッティングの場所も以前のハイハット近くからハイタムとライドの間に変えてみてフレージングにどのような影響が与えるのかを試してみたいとの思いもある。こちらもまだ慣れたとは言い難く、より効果的に使う方法はまだあると実感。

また、ドラムとは直接関係ないが、手持ちのネットブックにオーディオインターフェイスのドライバを入れて、手持ちのシーケンスソフトとソフトシンセ一式をインストールしてみた。動作は思ったより良好。オーディオインターフェイスはUSB駆動なので、ネットブックがあればライブ環境や練習の日常的な録音に非常に便利。iPodの録音パーツを購入しようかと思っていたが、PCで録音したほうがその後の編集作業も圧倒的に楽だし、しばらくこれで試してみたい。一人でスタジオ入ったときの個人練習を録音してそれをテープコラージュの容量でカットアップしたりして、新しいリズムパターンを構築したり出来たら良いなと。

さて、次はmonolithの半年振りのライブが11月8日に、京都大学西部講堂で行われる。頭脳警察リザード、以前MogwaiのOAで見て感動したEnvyという強力な出演者との共演ということで非常に楽しみ。お時間ある方はぜひ。

The Cinematic Orchestra 『Live At The Royal Albert Hall』

[音楽]The Cinematic Orchestra 『Live At The Royal Albert Hall』

Live at the Royal Albert Hall [解説・ボーナストラック付き国内盤]

Live at the Royal Albert Hall [解説・ボーナストラック付き国内盤]

スタジオ盤の方はなんだかぴんと来なかったのだが、このライブ盤を聞いてかなり考えが変わった。オーケストラを組み込んだ生楽器主体のライブとしての完成度がすさまじい。個人的にはPortisheadの『Roseland NYC』に匹敵する完成度だと思う。後者の魅力は何といっても沈鬱なバンドサウンドをストリングが引き立てている点にあるが、The Cinematic Orchestraのこの作品は豪華なオーケストラが乗っかることでサウンドの煌びやかさがより引き立てられている印象を受ける。

スタジオ作品を聞いたときは、正直何か狙いすぎている感じが強くてそこに引っかかってしまったような気がする。映画音楽やスピリチュアルジャズをよく知ってますよ、みたいな。その点このライブ盤では演奏者たちのサウンドが一つの方向性に収斂していくような魅力がある。彼らの作品を聞く場合はぜひこのライブ盤からと薦めたい。

Live: Roseland NYC

Live: Roseland NYC

個別から普遍に至る道へ

9月末〜10月前半は怒涛のような仕事の忙しさで連日のタクシー帰りだったが、中旬以降一先ず落ち着きかけている。また11月は嵐が来そうだが・・・。

軽音の主催イベントに夜酔リョータロウバンドで出演したり、友人の結婚式に出たりとなかなか忙しくて中旬以降燃え尽きかけていたが、ようやく復活。燃え尽きていたというより多少の精神的な不安定さもあり、疲れていたせいか、会計の勉強をしようと思いながら全く進まず読んだのは小説ばかり。何かに救いを求めるが如く、ひたすらベッドの中で小説を読んでいた。特に集中的に読んだのはカズオ・イシグロの旧作。この作家には本当に外れがないことに強く驚く。未読の方はぜひ文庫化もされた近年の傑作『私を離さないで』を読むことを強く薦める。この作品が少しでも気に入った人は彼の旧作に迷わず手を伸ばして欲しい。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

カズオ・イシグロと並んで強烈なインパクトが残ったのがノーベル文学賞受賞作家であるトニ・モリスンの『スーラ』。黒人にして女性という、二重の意味でのサバルタンである彼女の作品には、紛れもない物語の強い重力が存在している。『スーラ』を読んで僕は中上健次との強い共通点を感じたが、そのことに気づいた瞬間は何かが頭の中で炸裂するような衝撃だった。『スーラ』は黒人女性のアイデンティティを巡る小説でありながら、黒人の場所を巡る小説でもある。中上健次における「路地」が最後は消滅したように、『スーラ』においても黒人が暮らす集落は最後に消滅する運命を辿る。虐げられるもの場所が消えるということ、その消滅・不在を国籍も性別も違う2人の作家が、ほぼ同時期に書いていたという事実。これこそ1つの個別の問題系が普遍性を獲得する瞬間だと僕は信ずる。

スーラ―トニ・モリスン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

スーラ―トニ・モリスン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

Prefab Sprout 『Let`s Change The World With Music』

Let's Change the World With Music

Let's Change the World With Music

このアルバムを何度となく聞いている今でさえ、聞いているという事実を疑いたくなる。待ち望んでいたというわけではなかったけれど、Prefab Sproutが今になって新作を出すなんて想像していなかった。いや、そんな想像はどうでも良くて、僕が伝えたいのはこの作品が本当に素晴らしいということだけだ。

Prefab Sproutはイギリスが生んだ稀代のメロディーメーカーであるパディ・マクアルーンを中心に結成された4人組みのバンドである、というかバンドであった。80年代のネオアコムーブメントの中でデビューした彼らは次々に素晴らしい作品を生み出した。特に彼らの代表作である『Steve McQueen』の完成度は半端ではない。ため息が出るくらい美しいメロディーの連続で、そこに過ぎ去ったアドレッセンスの憧憬を想起せずにいられない、そんなアルバムなのだから。

Steve Mcqueen

Steve Mcqueen

しかしいつしかバンドはほぼ解散状態になり、Prefab Sproutはパディ一人のソロユニットのようになってしまった。そんな中で突然出されたこのアルバム。タイトルからして本気だ。ドラムはほぼ全編が打ち込みになりサウンドの印象は古臭さを否めない。けど、それがどうしたというのか。彼の美しいメロディーが聞ける、それもこんなに優れた作品として。その事実がただただ喜ばしい。

「音楽はプリンセスのようなもので、僕はただの少年。僕は彼女の荷物を運ぶのに一生を費やすのも厭わない」との歌詞からは、彼が音楽に、ひいてはこのアルバムにどれだけ多くのものを捧げたかという思いの程が伺い知れる。彼が歌う通り、音楽は余りにも広大すぎて、我々がコントロールできるレベルなんて程度が知れているだろう。それでもその広大な世界の一片にでも触れることが出来るなら、それが音楽の中に身を置くということの意味なんだろうか。

見えない関係性を炙り出す〜J.M.クッツェー『鉄の時代』から〜

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)

池澤夏樹とJ.M.クッツェー

池澤夏樹責任編集の河出書房による海外文学シリーズの1冊。個人的に池澤夏樹は僕が本を読み出した大学3回生くらいの頃に大好きだった作家の一人である。3回生の頃の学部のゼミでは彼の『バビロンに行きて歌え』という小説を題材に発表を行ったりこともあり、彼の文学感を僕は信頼している。それ故にこのシリーズも前々から気になっていた。そこで第一冊として選んだのが2003年のノーベル文学賞受賞作家であるクッツェーのこの作品だった。

同じ学部だった友人と生協の本屋に行ったときに彼から僕はクッツェーの『夷狄を待ちながら』を薦められて読んだことがあるが、それ以来クッツェーの作品を読んだことはない。『夷狄を待ちながら』は架空の国家を舞台に暴力や国家という枠組み自体を問う作品だったように記憶しており面白かったのだが、この『鉄の時代』こそクッツェーを知らない人に読んでもらいたい作品である。

作品の舞台

舞台はアパルトヘイト末期の南アフリカアパルトヘイト撤退を求める黒人の政治的活動が活発になる中で国家による鎮圧が続く血生臭い情況を舞台に、癌を患った老齢の白人女性を主人公に物語は進行していく。南アフリカを捨ててアメリカへと渡った唯一の娘への独白がこの作品の一つの主題であるのだが、まずこの独白が痛々しい。娘に決して恨み言を言うわけではないが、娘が自らのことをどれだけ想ってくれているのか、彼女は確信が持てずにひたすら独白を繰り返す。いつからか家に居つくようになったホームレスの男に、独白としてしたためた手紙を自分の死後に届けてくれるよう彼女は依頼する。その2者の関係性は娘への手紙をほぼ唯一の媒介として成立しているのだが、ここに第3者として加わるのが家政婦の黒人女性とその息子である。息子とその友達である少年は二人とも国家による暴力の犠牲となり途中で殺されることになり、3者の関係はいつからか終わりを告げ男との奇妙な関係性がクローズアップされる。

見えない関係性とは?

この作品の素晴らしさは様々な批評によっても裏付けることが出来るだろう。多様な読みを許す作品こそ優れた小説のひとつの条件だとしたとき、例えば次のような文章はどのような読みを可能とするだろうか。主人公が子どものときの回想シーン。

「わたしたちはあの日、庭で写真に撮られた。後ろにタチアオイと思しき花壇がある。左側にはメロン畑。場所ならわかる。ユニオンデールだ。ダチョウの羽根が高騰したとき、祖父が買い取った教会通りの家。毎年、毎年、あの庭では果実、花、野菜が芽吹き、あふれんばかりの種子をこぼし、枯れて、みずからの力で再生し、その豊かな稔りでわたしたちを祝福した。しかし、だれの愛によって手入れされていたのだろう。だれがタチアオイを切りそろえたのだろう。だれがメロンの種子を、あの温かく湿った土に埋めたのか?凍りつくような寒い朝、四時に起き出して水門を開き、庭に水を引き入れたのは、祖父だったのか?祖父でないとすれば、あの庭の正統な持ち主はだれか?影の存在は、見えない存在は、いったいだれなのか?」(本書pp133より引用)

幼少の頃の幸福な情景。しかしその情景を作り出したのは恐らく祖父、もしくは親族に当たる関係の人間ではない。彼女がしつこく誰か?と問うとき、そこにはこの写真からは抹殺された一つの関係性が立ち現れてくる。言うまでもなくそれは南アフリカという情況においては黒人の存在でしか有り得ない。クッツェーは社会的な関係性を強烈に前面に出そうとはしない。彼は描写と描写の間において、見えない関係性を炙り出そうとする。直接的な関係性を叙述しない、むしろ間接的に描かれることでその関係性はより一層強いものとして読者に迫ってくる。また例えば黒人に対する国家の暴力に対し「同志の絆」という名目の元で徹底的に抵抗することを選ぶ黒人男性への批判。

「同志の絆というのは、死の神秘的解釈にほかなりません。殺すことに、死ぬことに、仮面をかぶせて偽装させることですよ。あたなが絆と呼ぶものは(なんの絆?愛?ちがうわね)。この同志の絆にわたしはいかなる共感も感じません。あなたは間違っています、あなたもフローレンスもだれもかれも、そんなものに騙されて、もっとわるいことに子どもたちにそれを奨励している。それは、あの身も凍るような、排他的で、死に急ぐ、男の構築物にすぎません。それがわたしの意見です。」(本書pp179〜180より引用)

「暴力」にまとわりつく2つの関係性の力学

この言葉を単なる暴力批判と捉えるべきではない。最後の言葉に明らかなように、彼女にとって黒人たちが主導する「同志の絆」の旗の下での国家暴力への抵抗暴力ーそれはフランツ・ファノンの言葉を借りるなら「国家の暴力としてのforceに対する、下からの抵抗暴力としてのviolence」と解釈できるだろうーとは男性が社会的に構築した幻想でしかない。このviolenceとしての抵抗暴力に女性が加わっているかどうかということはこの次元において問題にならない。そうではなくメタフィジカルな次元において、彼らがその暴力の妥当性の根拠に据える「同志の絆」からは女性が欠如しているという批判である。黒人の暴力が如何なる政治的帰結を生み出すか(それは当然現実の世界においてはアパルトヘイトの撤退という結果を生むわけだが)は彼女にとってさほど重要ではない。それよりも自らと親しい関係性にあった二人の少年が、抵抗暴力の名目下で国家にむざむざと殺されたという事実こそが彼女の批判の立脚点となっている。だからこそこの批判に対して黒人男性は彼女のもう一つの社会的な帰属である「白人」という事実を盾に、「何もあなたは分かっていない」と全面的は反意を示す。つまりここでは「男性⇔女性」という関係性のみならず「黒人⇔白人」という関係性も含めた二重性をクッツェーは見事に二者の対話において描ききる。

最後に

南アフリカという舞台を選択することは当然「差別」という問題を作品に持ち込むことに違いはない。しかし南アフリカに生まれたクッツェーは、差別がどのようなものだったのかを描こうとしたのではない。むしろそこにある複数の関係性の力学を複雑な状況のまま読者の目前に提示しようとしたのではないか。読者に解釈のスペースを与える、これこそ文学の持つ最大の力なのではないか、そういう気すらしてくる。ともかくこの作品が一人でも多くの人の眼に留まることを僕は願ってやまない。

Animal Collective 『Feels』

Feels (import)

Feels (import)

前々から気になっていたAnimal CollectiveのCDを初めて聞く。手始めに選んだのは『Feels』という2006年の作品なのだが、これがめちゃくちゃ良い。サイケデリック・ポップとか言われているけど、現代の『Pet Sounds』よろしく様々な音がキラキラと散りばめられている。特にこのアルバムはギターの使い方を意識したと本人たちがインタビューで語っているが、ギターによる重層的なサウンドの作り方は非常に頭脳犯的。かなり中毒性の高いアルバムなので、まだまだ聞くのが楽しみ。その勢いで『Strawberry Jam』も購入したので、こちらのレビューも後ほど。

平凡な日常と曖昧な不安

この土日は久しぶりにゆっくりと過ごした2日間だった。外に出なかった訳ではないが、基本的に自宅の周りで行動し、のんびりと過ごす。たまにはこういう土日があっても良い。土曜日の一日を振り返る。

5日(土) 10時

・昨夜は北海道旅行の打ち上げを天六の名洋食店「ごめんねジロー」で行った後、僕の家で2次会。4時前にみんなが帰り就寝して起きたのが10時。この2週間くらい鼻の中が常に切れたような状態になっていたため近所の耳鼻咽喉科へ。抗生物質と塗り薬をもらう。

12時

昼ごはんを中華料理屋で食べた後、散歩しようと思い立ち扇町公園へ。ここは広いグラウンドにプール、アスレチックと休日にはスポーツをする人たちで賑わう。多少の太陽を浴びながら自宅へ。そのまま帰るつもりがもうちょっと歩きたくなって都島方面へ。Bill Frisellの『Nashville』を聞きながらの散歩に幸福感を感じながら道中の本屋へ立ち寄り。久しぶりに6冊程本を買って家へ。

14時

洗濯をしながら本を読む。1冊目は大森望豊崎由美の『文学賞メッタ斬り!』。

文学賞メッタ斬り! (ちくま文庫)

文学賞メッタ斬り! (ちくま文庫)

大体Webで公開されているバージョンを読んでいるがやっぱり面白い。豊崎渡辺淳一宮本輝に対する罵倒が素晴らしい。渡辺淳一なんかは彼が札幌の文士としてみなされることに大いなる失望を感じるのだが。中高年のエロ小説を書くだけの作家なんて、文士でも何でもねえよ。布団に横になっていたらいつの間にか眠る。心地よい昼寝。

17時

サンプラーを持って近所のスタジオへ。明日のバンド練習の備えてのリハーサルだったが、実際にセットで使ってみるとなかなか感じが良い。生ドラムの練習は適当にして、サンプラー自体で色々とキットを試す。

20時

家に帰ってきて読書の続き。2冊を平行に読む。1冊は会社の先輩に薦められた『奇跡のりんご』の著者の別冊。僕は幻冬舎の本をあまり信用していないので、日経から出ているこっちを購入。農薬の利用が当たり前になっているりんご栽培で無農薬を成功させた著者の半生記。これがまた面白い。特に農家にとって農薬というのはかなりの経済的負担になっているということを知る。りんごに対する純粋な思い入れが高じて無農薬栽培が成功するということは結果的に、りんご自体の商品価値を向上させるということと同時に、農薬のコストがなくなることで利益率の向上にもなるという事実は、農薬について無知な自分には新しい視点であった。。
もう1冊は長らく公明党の書記長を務め、その後のトラブルから学会に狙われることになる彼の半生記。公明党が政権を離脱するであろう今だからこそ、創価学会公明党の「政教分離」の建前を知る必要があるのではないかと思っている。内容としては学会に対する全面的な批判というよりは、あえて批判することで創価学会が本来持っていた純粋な宗教団体に戻って欲しいとの思いが書かれている。もうちょい内部に踏み込んだことが知りたかったというのが実感。特に「総体革命」とかはもっと知りたいのだけど。

リンゴが教えてくれたこと 日経プレミアシリーズ

リンゴが教えてくれたこと 日経プレミアシリーズ

黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録

黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録

22時

ご飯を食べに外へ。天六周辺には寿司屋が非常に多いのだが、僕がよく行くのは「春駒」と「すし政」の2軒。特に一人でも気軽に入れて安い「すし政」へ。一人で瓶ビールを飲みながら寿司を食べる至福。自由だなあと思う一方でいつまでこうした生活が続くのだろうかという不安がないわけでもない。20代も後半に差し掛かった自分にとって真剣に考えないといけないと思いながらも酩酊する。

先週は仕事がかなりハードだっただけに、この休日でかなりリラックスできた。平日忙しくても土日2日間の休みが取れればまあ何とかなるもんかもしれない。