『絵画の庭-ゼロ年代日本の地平から-』@国立国際美術館へ

今日は久々に有給が取れて4連休の2日目*1。朝早く起きて洗濯をした後、目指すは一路この中之島の国際美術館でやっているこの展示会へ。

総論-果たしてミクロな感覚がそんなに凄いのか?-

日本の現代美術の世界での「ゼロ世代」の作家たちは、所謂マイクロポップだとかネオテニーとかのキーワードで語られそれなりに批評言説も充実してきた感覚があるが、東京という文化の中心地*2からかけ離れていると中々目にする機会もないように思われるため、今回の展示はそれなりの期待を胸にして出掛けた。

本展示ではポスターにも登場する奈良美智の作品を筆頭に、会田誠や町田久美など30人弱の作品を集めたものである。基本的に僕が知っていたのは先の3人にプラスして草間弥生くらいのもので、他は全く知らない作家のものであった。総論として言うなら、多様な手法や問題意識に彩られた作品を見るのは刺激的だった一方で、「マイクロポップ」というキーワード(あくまでもこれが批評的言説として構築されたものだということを差し置いても)に内在する一種の危うさを僕は実感した。具体的な作家名は覚えていないので出さないが、その危うさとは数名の作家から、ミクロな表現やテクニカルな技法に取り入りすぎてそこから広がっていくような何かを感じ取れなかったことだ。

日常生活の隘路に陥るJ文学とマイクロポップの類似性

例えば90年代〜00年代の日本の文学において、自分の身の回りの日常を書けばそのままそれが文学として成立するかと錯覚しているような作家が多く存在していたことを想起させる。そこには伝統的な「私小説」に対する完璧な誤解が背景として潜んでいるわけで、こうした作家こそJ文学の蔑称に値すると内心思っているが、この展示で感じた危うさはこの感覚に近い。

マイクロポップを巡る言説の一つに「日常生活の再利用」がある。これは中心から排斥され周縁に追いやられた者/物を活用することで新たな表現活動を得ようとする、如何にもポストモダニストが好きそうな言説であるが、日常生活という極めてミクロな世界のものが何か我々に訴えかけるものがあるなら、そこには確実にミクロな枠に内在され得ないマクロな広がりがあるはずではないか。そうした二律背反を持ち得る強靭な作品こそが、優れた美術なり文学なりの1つの条件ではないか。そうした力のない作家、ないしは作品が「マイクロポップ」の名の下で評価を与えられているだとしたら、そうした批評的言説は全て空虚なものでしかないと思うし、空虚な批評的言説など消費されて仕舞えば良い。

最もそうした消費されることを前提として現代美術の世界にもシニシズムが未だ蔓延っているのかもしれないし、その世界においては空虚な批評的言説、それが何だということにもなるのかもしれない。しかし僕はもうそろそろ消費されることを前提として逃げ出せばそれで済むような*3ポストモダニズムにはうんざりしている。もちろん消費されること自体を事実として認めながらも、もっと正面切ってそこに抗うような手法はないものか、そう考えている。

*1:7月に異動してきてから有給を使ったのは12月の社員旅行で使った金曜日午後の半日年休だけ。北九州のときは体調不良で冬場はたまに休んでいたが、ここに来てからそういうこともない。

*2:ことに美術においてはその傾向が一層強いように思われる。ただし地方は地方で強い独自色を持った美術館が点在していたりして、それはそれで面白いと思うのだが。

*3:浅田彰『逃走論』を参照。